アローの経営理念

共に笑顔で楽しく幸せをプラスした生活を創造します
共にとは、関係者みんなで幸せを共有する意味。
お客様・会社・地域社会の全体で共有するということ。
笑顔で楽しくとは、笑顔や楽しい時というのは明るく、プラスでポジティブな状態、
笑顔や楽しいことは連鎖したり、広がったりしやすく周りにいい影響を及ぼし続けられたらいいなという思い。
幸せをプラスした生活を創造しますとは、私たちの建築業はモノづくり企業のように見えますが、
住宅やお店という生活に密着した建物に関連した私たちの仕事は、
モノづくりというよりも“暮らし方つくり”企業だと自負しています。
暮らしに幸せを取り入れたい、その気持ちです。
またプラスと創造の2つの単語には、無から有を作る、つまり付加価値を作り、
社会の発展に貢献したいという思いも込められています。
アローでは建築を通して、お客様の暮らし方の向上と社員の幸福度向上、 そして社会の発展に寄与することを目指しています。

平成元年6月アロー建設は創業しました。創業者は私の父の矢山公(ややま ただし)。
出生地は現在の中国東北部の満州国鞍山、祖父は製鉄所勤務でしたが、シベリア抑留から帰らぬ人でした。祖母は父とその弟(私の叔父)の二人を連れて、帰国は果たせたものの、親戚の家に居候の身でまた、叔父が大病をしたことで非常に貧しく、またつらい幼少時代を過ごしたとのことです。
居候先は祖母の実家でしたが、帰国時は兄嫁が家内を仕切っており、戦後の厳しい食糧事情などもあり、本家と居候では食べるものや部屋の場所までも差別されており、その家での暮らしが非常に嫌だったと聞いたことがあります。
それで父は工業高校を卒業と同時に『1センチでもあの家を遠く離れたかった』と大阪に就職したと語っていました。
大阪では数社、建設会社で働きますが、最終的に親戚の工務店に呼ばれて働きます。
しかし、その工務店が事業縮小で父は48歳で会社を追われることになったのです。
高卒以来30年ほど建築一筋で働いていた父は業界での知り合いも多く、数社から入社の誘いを受けるも、それをすべて断って、独立開業の道を選びました。
もともと独立志向があったのですが、30代のころは独立話の度に、会社からの引き留めがあり、また、独立後の先行きの心配から踏ん切りが付けられなかったようですが、親戚の会社の事業縮小・リストラを機に独立の運びとなったのでした。
独立した平成元年はバブル崩壊の直前でまだまだ仕事がたくさんあり、順調な船出だったように、当時、高校生だった私の記憶にあります。
開業当初はカラオケブームで、カラオケルームの工事をたくさん請け負っていました、カラオケのあとは、市場からスーパーへの業態変換工事、そしてバブル崩壊直後は、景気対策で増えた公共事業(枚方市)の工事で業績は数年間は安定していました。
しかしその後は長い建設不況で青息吐息の営業を続けていたようです。
業績が良かった時代の蓄えはほとんどありませんでした。
父は、幼少期に受けた本家と居候家族の差別を忌み嫌っており、みんなで稼いだものはみんなで分けたい、と言って、ほとんど残っていませんでした。美談のようにも聞こえますが、経営者としては用心深さが足りなかったのかもしれません。
先代社長である父(左)とお客様と母
私はこの仕事を継ぐつもりはありませんでしたが、親の影響があったのか、同じ建設業界である土木工事業界で働いていました。
海外で暮らしたい、という夢を持っていた私は、大阪工業大学土木工学科を経て、三井建設株式会社(現三井住友建設)に入社しました。
9月の内定式でもらった希望配属先には第1希望に国際事業部を記入しました。
当時の海外事業所はメキシコ、シンガポール、グアム、アメリカ本土、中国、モルディブ、ケニヤなどグローバルに事業展開されていて、どこに配属されるかドキドキわくわくしていたことを覚えています。
しかし入社直前の平成7年1月に阪神淡路大震災が発生しました。地震の4日目に初めて被災地に入りました。
交通手段は原付バイク。ひどい交通渋滞のなか、何とか原付バイクで尼崎市、西宮市、神戸市へと入ることができました。元町のあたりまで行き、避難所に差し入れ(ハンバーガー50個、当時はマクドナルドで100円/個だった)を持って入らせてもらい、大変な状況の一端を見せてもらいました。
ゼネコン時代 神戸市営地下鉄海岸線
苅藻駅 シールド工法掘削(中央)
驚いたのが、4日目でしたが、道路はアスファルトが起き上がる危険な個所がたくさんあったのですが、そのどれもがアスファルトの角を叩いて丸くしたり、簡易な補修材で補修されていたこと。
この短期間で、どうしてここまで応急処置がされているだろうか、本当に現場で働く人たちの尽力に感心するばかりでした。
この地震の被災地を実際に目にしたことで、私の建設への思いが変わりました。
海外で生活したい夢はいったん脇に置いて、この被災地の復興の力になりたい、という思いが心から湧いてきました。
自宅に戻り、その夜、入社予定の会社の人事部の担当者に手紙を書いていました。
手紙では、国際事業部が第1志望だが、神戸の震災復旧の現場で働きたい、と志望部署変更を申し出ました。
手紙は投函しましたが、会社からは特に返事もなく、入社日を迎えました。配属先は大阪支店でした。
手紙を書いた甲斐があったように思いました。
転勤になるまで約3年間震災後の神戸で働かせていただきました。そして、その後は海外赴任することはなかったので、入社5年目に元々の夢だった海外での生活をするために、社内の国際事業部への異動を申し出るのでなく、青年海外協力隊の隊員に応募するのでした。
協力隊への応募は実は、それまで働いた5年間の会社員(というか、ゼネコン社員)での経験からでした。
ゼネコン(総合建設会社)は営利企業なので、当然利益を追求します。震災現場でも、その他の現場でも少しでもトラブルがあれば設計変更を発注者に申し出るのですが、あくまで利益追求で、本当は従来の工法でトラブル回避するなら300万円くらいでできることを、最新の工法を提案して、10倍以上の3,000万円~4,000万円の工法を提案し、変更契約を結んでもらいます。その際(当時の)担当者は不勉強な役所の方だったので、こちらの説明が100%通ります。
なんだか、この利益の追求の異常さに嫌気がさしたこともあり、非営利ボランティアの青年海外協力隊に応募したのです。
そうして、会社からはボランティア休暇を2年4か月もらい、途上国に赴任しました。
協力隊の2年4か月は何にも代えがたい貴重な体験をさせてもらったと思っていますが、直接、今の仕事はあまり関係しないので、説明は割愛しますが、ただ一つ、いまの仕事に影響する印象を持ったことがあります。
あまりに営利追求しすぎるゼネコンの仕事に少し嫌気がさして、協力隊に応募したことは前述のとおりですが、途上国の現地では全く反対の経験をしました。
在外公館で、一部、目に余る税金の使い方を見たとき、なんでそんな税金の使い方をするの!と思いました。自分で稼いでもいないのに税金を意味なく無駄遣いするのを見て、出国前には何でもお金に変えることに嫌気がさしていたはずだったのに、今度は逆に、お金を稼ぐことの努力の尊さに気付かされました。
そして帰国したら、絶対に税金を納める側の人間になり、日本をそして世界を支えよう(少し大げさですが)と心に誓い、帰国後に自分で事業を始めることになりました。
測量学実習中
測量学実習中
現地の子どもたちと
帰国後すぐは、もとの会社に復帰させてもらい、岐阜や能登半島で仕事を3年ほど行い、会社で早期退職の募集が出たタイミングで会社をやめました。当時34歳で、実際には早期退職の対象ではなく、退職金の上乗せ等もありませんでしたが、退職後の仕事に心を馳せ、わくわくした気持ちに包まれていました。
しかし退職前数年は名古屋支店で働いていたこともあり、起業した大阪ではほとんど人脈もなく状態で、自分一人きりでのリフォーム会社を始めました。
仕事仲間は大阪にはいませんでしたが、知人友人や先輩さんからすぐに工事依頼をいくつもいただきました。
独立してすぐのわたしに、耐震化を含む自宅の全面リフォームで700万円ものお仕事くださった先輩は本当に恩人と呼べる方で、よく駆け出しの私を信頼してくださった、あの仕事がなかったらおそらくリフォームの仕事を辞めていたかもしれないと思っています。
しかし知り合いからの発注は1年も続きませんでした。
会社員時代は技術系で現場監督でしたので、営業の方法もわからず、ただ途方に暮れてしまいました。 
そうして、半年ほどで当時、一人でしていた父に助けられる形でアロー建設に合流しました。
父と私では営業力に大きな差があり、当然父の方が稼いでいたのですが、私に父と同じ額の給与をくれました。
私の生活があるから助けてくれたのか、本当の理由は聞けていませんが、私を一人前と認めてくれたからではなかったことは確かだと思います。
父と合流して、2年ほどで、父はあっさりとガンでなくなってしまいました。
父亡き後、もともと父のお客様のところに行くと、父が客先で得ていた信頼の大きさに驚くばかりでした。
父が幼少の時の思った、差別されることが嫌だという思いが、一人一人のお客様に真摯に向き合い、
分け隔てなく丁寧に対応することでお客様からの信頼を得たのだと思いました。
時代は平成から令和になり、建築業を取り巻く環境は劇的に厳しくなってきましたが、
変わらず、一人一人のお客様と向き合い、一軒一軒のお家に向き合って、
時代に合った提案を続けていけたらと思っております。